暖かい風を感じる季節になると、日本列島が桜色に染まります。
春夏秋冬それぞれの季節感を味わえるのは、四季がある日本ならではのものですね。
桜の時期になるとよく見る光景に「お花見」がありますが、
「お花見っていつからはじまったものなんでしょう?」
意外と知っているようで知らないことって気になったりしませんか?
そこで今回は、お花見の意味や由来とは?いつから始まったの?お花見をする理由とは?についてご紹介します。
お花見の意味や由来とは?いつから始まったの?お花見をする理由とは?
お花見の起源とは?
お花見の起源については、下記の二つの説があります。
お花見の起源とは?その①
ひとつは奈良時代、貴族の間で催された「花宴(はなのえん)」というものがありました。
これは、中国の唐王朝の文化にならって、梅の花を鑑賞しながら歌を詠むという催しでした。
そのころは、そのころは花というと桜ではなく、梅だったんですね。
その後、平安時代に入り、嵯峨天皇が812年に神泉苑で「花宴」を催したとされていますが、この時には、すでに梅から桜を愛でるようになっていたようです。
そして、831年に「花宴」は、宮中の恒例行事とされ、その様子などは有名な「源氏物語」などにも描かれています。
お花見の起源とは?その②
もうひとつの説は、奈良時代以前にまで遡ります。
古代の農村や山村では、古くから農民による花見が行われていました。
古代の農村では稲の成長を司る神様を大切にしており、桜が咲くと神様の到来(田植えのはじまり)を知らせるものとされていました。
また、「さくら」の「さ」は田の神様、「くら」は神様の座る場所という意味もあり、稲の収穫を占うものとして使われたりもしています。
そのため、桜は、神様の到来を告げる大切な役割を果たすものとして大切にされ、桜の木にお供えものなどをして1年の豊作を願ったり、花の咲き具合から、その年の稲の豊作を占ったといわれています。
宮中の行事とは別に農民の間でも、田の神様をお迎えし、お料理やお酒でおもてなしをするこの行事は、農民にとって大切な年中行事のひとつでした。

太陽や土、水や気候といった自然の恵みで育まれる農作物をつくるうえで、季節の移り変わりを敏感に感じていたのかもしれませんね。
現代のような花見スタイルになったのは江戸時代
江戸時代に入って、三代将軍徳川家光から八代将軍徳川吉宗にかけて、将軍たちが桜の植樹を推奨したことから、江戸の各地に桜の名所が次々に誕生し、庶民の間にも花見が広まっていきました。
特に、八代将軍徳川吉宗は、多くの人に花見を楽しんでもらおうと、王子の飛鳥山や品川の御殿山、隅田川の堤などに多くの桜を植えました。
この大規模な植樹を行ったことで、一カ所に多くの桜が植えられ、人々がそこに集まり、桜の下でお弁当を広げ、飲んだり食べたり歌ったりできるようになったのです。
それまで花見というのは、名木といわれる桜を鑑賞することで、大勢の人で集うようなものではありませんでした。
桜の木の下に集まって、飲んだり食べたりといった、現代のような花見のスタイルがつくられたのは、江戸時代になってからなのです。
今は、桜の品種として「ソメイヨシノ」などが桜の代表格ですが、これは江戸時代に、現在の豊島区駒込あたりにあった染井村の植木屋が大島桜と江戸彼岸桜を交配して鑑賞用に作りだしたものだとされています。
そして、当初は桜で最も有名な奈良県の吉野の地名にあやかった「吉野桜」と名前を付けていたのですが、吉野山の山桜と区別するということで、「染井」と「吉野」を合わせて、「染井吉野」と改名したとされています。
なお、大島桜は、花が大きく香りもよく、江戸彼岸桜は花が咲いた後に美しい葉が出てくるという両方の長所を生かしているところから、一躍人気が高まり、桜と言えば「ソメイヨシノ」といわれるまでに代表的なものになったのです。
江戸時代からは庶民の春の行事としても定着する「お花見」。
園芸も盛んとなり、桜の品数改良も進み、身近なところで桜を楽しめるようになったという背景もあり、日本中に桜の花が増えていきました。
まとめ
春の訪れを伝えてくれる桜。
四季が存在する日本だからこそ、厳しい冬を乗り越えたあとの、穏やかな春の訪れを告げる桜は、特別なものだったのかもしれません。
歴史とともに桜が大切にされ、その美しさに魅了され、現代でも愛される桜。
桜の季節に桜色に染まる日本列島は、時代とともに歩んだ桜と日本のつながりも感じられるものかもしれませんね。
自然や季節とともに生きていた先人たちに想いを馳せながら、しばし、自然に感謝し、四季を五感で感じながら、現代の「お花見」を楽しんでみるのも風流なものかもしれませんね。